第十章「封印」
誰かがわたしを呼んでいる。
誰の声だろう。聞き覚えはあるが、姿は見えない。懐かしい声だと思った。いつか、どこかで聞いたことのある声。
次第に声は小さくなっていく。
待って。
わたしは姿の見えない声の主に呼びかけたが返答はなく、やがて声は遠ざかっていく。
待って、わたしを置いていかないで!
わたしは再度叫んだが、それでも返事はなく、辺りは無音となった。何故かはわからないが、いまだかつて体験したことのない喪失感がわたしを襲う。お母さんを亡くした時以上の、胸を抉られるような痛み。
どうして、こんなに胸が痛いのだろう。あれは一体誰だったのだろう。
そう考えたとき、わたしの意識は途切れた。
「ん︙︙」
薄目越しに覗き込む人の気配を感じて、わたしは瞼を開いた。
「あ、おねーさん、気が付きました?」
はじめに聞こえてきたのは葛ちゃんの声だった。
「あれ、葛ちゃん︙︙ここは?」
「お家ですよ。あれから、わたしたちを捜しにきたサクヤさんたちに手伝ってもらって、おねーさんを屋敷に運んだんです」
「そうだったんだ」
「どれどれ、ちょっと身体の具合を診てみるよ。桂、どこか痛いところはないかい?」
そう言いながら、サクヤさんが顔を見せる。続けて千羽さんも。
「︙︙みんな、ありがとう」
そう言った途端、双子の鬼から逃れた安心感とさっきの夢で感じた喪失感とが入り混じり、わたしは思わず涙をこぼした。
「そんな、今更何言ってるんだい。あたしゃアンタの母親からくれぐれも桂を宜しくって頼まれてるんだよ」
「うん︙うん、わかってる。でも、ありがとう。葛ちゃん、サクヤさん、千羽さん」
わたしはそのまま涙を流して、みんなに感謝した。
§
時刻は夜も夜中の丑三つ刻を回っていた。草木も眠ると言われる時間にもかかわらず、屋敷には明かりが灯っている。わたしは寝かせられていた布団から起きあがると、葛ちゃんと千羽さん、サクヤさんの四人で座卓を囲んだ。
「で、桂と葛は双子の鬼を見たんだね?」
サクヤさんが切り出し、そこから話は始まった。題材はわたしに流れている特別な血のこと、それを狙う人に在らざる存在=鬼のこと。わたしたちが遭った状況については葛ちゃんが既に説明してくれていたが、わたしの口からそれは再度語られた。
わたしの説明が終わると、サクヤさんと千羽さんがそれに質問する形で話はなおも続いた。
鬼を切るのが生業という千羽さんはともかく、サクヤさんまでもが鬼に詳しいという事実がその過程で明らかになり、わたしは更に驚いた。詳しくは話してくれなかったが、サクヤさんはただのフリーカメラマンではなく、この経観塚に隠れ住む鬼や妖怪などに通じており、そのため生前のお祖母ちゃんとも面識があったらしい。
一通りの話が終わると、話題は葛ちゃんの今後の身の振り方についてに移ったが、彼女が置かれた立場はこの数時間で激変したので当面のところ棚上げしておくことになった。そう決まると、わたしが鬼と無縁ではいられない体質だと発覚したせいか、葛ちゃんもあれだけ拒否した千羽さんから逃げようとはしなかった。
「双子、双子︙︙ええと、双子ですか」
双子という言葉が引っ掛かるのか、葛ちゃんは呟きながら、ノゾミとミカゲの双子の鬼のことを考えているようだ。
「双子かどうかは知らないけど、ノゾミは主のしもべだよ」
サクヤさんが指摘する。
「主?」
「ああ、桂は知らなかったんだね。主ってのは経観塚の山中に隠れ住む鬼のことさ。桂と葛は駅員さんに山の主と呼ばれる蛇神のことを聞いたんだろ? そいつが主だよ」
そこまで聞くと、葛ちゃんは、ぽんと手を叩いた。
「思い出しました。確かわたしのご先祖様が昔ここで起きた神隠し事件を解決しているんですよ」
そういえばこの屋敷のことを訊いたときに、そういう噂も耳にした。火のないところに煙は立たないと言うが、実際に神隠しはあったのだ。
「その神隠しを起こした犯人は血を吸う双子の鬼で、ハシラに封じられた主のしもべでノゾミとミカゲと言うらしいのですが︙︙彼女たちが、主を封じたハシラの封印を解こうとしたことが事件の発端なんだそうです」
葛ちゃんの説明によると、あの双子の鬼たちが村人を操り、オハシラサマのご神木を切り倒そうとしたのが、経観塚に起こった神隠しの真相らしい。しかも葛ちゃんのご先祖が一度解決していると言うからには、一度だけではなく、時を越えて何度も起きている事件なのだろう。
いずれにしても、主とそのしもべである双子の鬼は恐ろしい相手に違いない。事実、わたしたちはその脅威を目の当たりにしているのだ。
「つながりましたね。桂おねーさんが最初に襲われた赤い蛇と、昨夜の双子の鬼。それと盗まれた鏡とが」
「鏡って、郷土資料館から盗まれたやつ?」
「頭の片隅に何かがひっかかってたんですけど、何で今まで思い出さなかったのか」
葛ちゃんはそう言いながら大きい溜息をつく。
「鏡がどうつながるの? 鏡は転じて蛇の目(カガメ)ってことなんだよね?」
「蛇の目と言われるくらいだから、主のしもべにとっては何らかの因縁があるんでしょう、多分。ご先祖様が残した記録によると、盗まれた鏡は双子の鬼の本体で、それを封印して村の長者に事後を託したそうなんですが」
「それが郷土資料館にあったってことは、寄付でもしたのかな?」
「おそらくそんなところだろうね」
そして、その鏡が盗まれた。
盗んだ者は不明だが、その者によって何らかの偶然で鏡の封印が解かれてしまったら、双子の鬼は現世に復活する。そう考えれば、話は自然に繋がってくる。
それにしても、封印を解くには手段が必要なはずだ。それは一体何だったのだろう。記憶の片隅で何かが引っ掛かるような気がしたが、それが何だかは判らなかった。
「︙︙ちっ、そういうことかい」
サクヤさんが忌々しそうに言い捨て、舌打ちする。
「そういうことって?」
「何でもないよ。過ぎたことだし︙︙葛、話を続けな」
「続けると言っても、大体こんなところですけど。こうなってくると烏月さんの追っている鬼も関係してきそうな勢いですね」
「そういえば千羽さん、郷土資料館に来てたよね?」
そう言うと、黙って話を聞いていた千羽さんは口を開いた。
「明らかに鬼の仕業であろう事件がありましたから。その線を辿っているうちに、あそこへ辿り着いたというわけです。わたしの追っているこの鬼も︙︙」
千羽さんはそう言って一枚の写真を取りだした。それは駅でわたしが見た男の子の写真だった。
写真に映っている男の子は少し中性的な感じで、角も牙もなければ尻尾も見当たらない。一見したところ鬼に見える要素はどこにもなく着物姿だった双子と違って服装も普通の男の子のものだった。
「この鬼は盗難事件の起きる前日、郷土資料館に入館していたそうです」
「じゃあこの男の子︙︙じゃなくて鬼が鏡を盗んだ犯人なんですか?」
「いえ、犯人は普通の人間です。ですが、その翌日に経観塚付近で変死体として発見されたそうです。鬼との間に何かしらの関わりがあったとみていいでしょう」
「ふん、偶然にしちゃできすぎてるね。鏡を盗んだ人間とそれを殺して奪った鬼。おまけに鬼切部とその頭領候補、贄の一族までが同じ場所で一同に会するなんて滅多にない話だよ。これだけの出来事が重なっているということは、何かの原因で主を封じた力が弱まってるんだろうね」
主を封じる《力》、オハシラサマの力が弱まっている。
そうなのだろうか。でも確かに、尾花が赤い蛇を退治した直後に消えてしまってから、わたしを護ってくれた女性あれがおそらくオハシラサマだったのだろうは、わたしの前に姿を現さない。主を封じるのが精一杯で、わたしを助けにくる余裕はないということなのだろうか。
「さて︙︙どうしましょうか、おねーさん」
「え? わたし?」
「贄の血絡みですから選択権はおねーさんにあると思うのですよ」
サクヤさんと千羽さんもわたしを見て頷く。
わたしは目を閉じ、考えを纏めた。
すべての元凶となっているのは山の主。それを封印している力が弱まっていることが、一連の出来事の発端になっているとすれば、
ひとつの事件を解決したところで他の事件が起こり続けるだけだ。 オハシラサマの《力》が弱っているのならば、それをもう一度強めるしかない。答えは明白だった。
わたしは目を開けて、皆に告げる。
「やっぱり、封じを強化するのが先決だと思う︙︙だけど、そんな簡単に封じを強化することができるの?」
「一応、簡単そうな方法から、難しそうなものまで複数の案がありますけど」
わたしの口をついて出た疑問に葛ちゃんが答える。
「簡単そうなのって?」
「オハシラサマを呼び出して、桂おねーさんの血を飲んでもらいます」
「ああ、なるほど」
確かにオハシラサマが強くなれば、封じの《力》も強くなるだろう。真意のほどは定かではないが、わたしの血に妖(あやかし)の力を強める効果があると双子の鬼も言っていた。元手はわたしの身体ひとつ。簡単と言えば簡単で、一番手っ取り早い方法には違いないだろう。
「じゃあ、難しそうなのは?」
「わたしが柱の封印を張りなおします」
「そんなことできるの?」
「最初に封じを施したのは役行者の小角と言う人らしいんですが、ご先祖様の記録を読んだ限りでは、尾花から貰った力でそれに近いことができるらしいんですよ」
「まあ、できるんじゃないかねぇ︙︙」
葛ちゃんのアイデアに、サクヤさんが適当な相槌を打つ。
「サクヤさん、それって根拠あっての発言?」
「あー、いや、別に︙︙」
そう言ったきり、彼女は口を閉じてしまった。
「まあ、とりあえずオハシラサマのところに行ってみましょうか。本人に『余計なことするな』とか怒られてしまう可能性も、無きにしも非ずですし」
「そうだね」
こうして、わたしたち4人はオハシラサマがいると言うご神木へと向かうことにした。
§
木。
たくさんの木が生えている。
高く伸びる木々それぞれが好き放題に枝を伸ばし、見上げた視界の先にあるはずの空をほとんど覆い隠してしまっている。幹の太い古木が立ち並び、丈のある草が両側に生い茂る狭い道を、わたしは手を引かれて歩いている。
微かな既視感がある光景だ。
だけどわたしは走るほどには急いでいない。手を引いているのは葛ちゃんだ。千羽さんが先に立って道を拓いてくれているので山道はそれほど困難ではなく、サクヤさんが後ろにいるので暗闇もそれほど恐ろしくない。
足元の草を踏みしめて、先へ進む。草むらは次第に深くなり、足元で踏みしめられた草が音を立てる。
ざあっ
一陣の風が吹き抜けたと思うと、突然視界が開けた。

山の中腹あたりだろうか。そこには見上げるほど大きな、円い月に向かって伸びている樹齢千年を数えるであろう神木が根を下ろしていた。
巨木の周辺には木々も草むらもなく、周辺の木々はこの大樹に遠慮しているかのように見える。
再び山を渡った風に、木々に咲く白い花がゆっくりと揺れ、白い花びらが舞い散る。月明かりにひらめくそれは、青白い光を放つ蝶の姿にも見えた。
視線を大木の根元に落とすと、花びらの蝶をまとったオハシラサマが唐突に現れ、神木の前に立っていた。
「桂ちゃん」
オハシラサマはわたしに向かって穏やかな微笑みを浮かべながら語りかける。
その声を聞き、わたしは郷愁にも似た、胸が苦しくなる感覚を覚えた。
この感じは何なのだろうか。どこか懐かしく、甘い花の香りが立ち込めているせいなのか。この木は、そしてこの木に宿ったあの人は、わたしのことを良く知っている。
何故かは判らなかったが、わたしは直感的にそう確信できた。
「桂おねーさん?」
手を握る温もりとわたしの名前を呼ぶ声が、思考の渦に飲まれそうになっていたわたしを現実へと引き上げる。
わたしは決心して、オハシラサマへと近づいた。
彼女は長いまつげで瞳を隠しながら、わたしたちに告げる。
「よくお越しくださいました」
恭しく頭を下げたオハシラサマが顔を上げると、間髪いれずに葛ちゃんが話し始めた。
「いきなりで恐縮なんですが、あなたは最初に役行者小角に封じの人柱としてここに祭られたお方ではありませんね?」
まるで探偵のような口調で、葛ちゃんはオハシラサマに訪ねた。
周りの反応をうかがうと、千羽さんはこれまで通りのクールなポーカーフェイス。表情の読みやすいサクヤさんでさえ少し反応しただけで、おろおろしているのはわたしひとりだった。そんなわたしを放置して、葛ちゃんはオハシラサマとの話を続ける。
「柱が収まるべきところに収まっていない印象があるんですよ」
「そうです。わたしはハシラの継ぎ手」
「やっぱり。オハシラサマがあなたのように形を成して姿を現しているということ自体が、とても異例なことなんです」
葛ちゃんの口ぶりからすると、少なくとも鬼切部に伝わる記録の中にはオハシラサマが人の姿で出現したことがほとんどないらしい。更に口を継いだ葛ちゃんの話からは、神隠しの事件の際に葛ちゃんのご先祖様がこの地を訪れた昔も、夢見に使いの蝶が現れただけなのだということが判った。
「封じを支える柱がフラフラしていたら、大変なのはわかりますよね? わたしがやろうとしている術は言霊でその歪みを矯正する、いわば存在の変造術のようなものです」
「変造?」
「例えばですね」
葛ちゃんは舞い落ちてくる花びらを手に受け止めると、それに言霊を吹き込んだ。
「『虫』!!」
すると花びらは蝶へと変わり、てのひらの上で羽を震わせはじめた。
「それ︙︙オハシラサマの?」
「いいえ、わたしの蝶は《力》の見え方を変えているだけなの」
「???」
そんなことを言われても、わたしにはよく判らないことだらけだった。
怪訝な顔をしているわたしを見て、オハシラサマは掌を揚げ、舞い飛ぶ光の蝶の一頭をそこに止まらせる。
「はい、桂ちゃん」
「え、あ、はい︙︙」
手渡された光の蝶は、シャボン玉を掌で受けたときのように微かで儚く頼りない感触だった。その掌の隣に、葛ちゃんがすっと手を差し出す。
「桂おねーさん、ちょっとこの蝶に触ってもらえます?」
「あ、うん」
オハシラサマから受け渡された光の蝶に比べ、葛ちゃんが差し出した蝶は、羽に触った指先に鱗粉が付いてしまうくらい、ごく当たり前の蝶だった。
「すごく普通なんだけど」
「その普通っていうのがすごいんだよ。それがもともと花びらだったなんて、どこの誰が信じるんだい?」
サクヤさんに指摘され、わたしは葛ちゃんが行ったことの凄さに初めて気づいた。
「あ︙︙そうか」
わたしの独り言を継ぐように、葛ちゃんが続ける。
「これが変造術です。そこらにある石を金に変えることも可能なので、西洋では錬金術とも言われますね」
そこまで聞いて、わたしは益々驚きを顕にする。もしかすると、これってとても凄いことなのではないだろうか。
「つまり、わたしが『封じの柱』と言う言霊を吹き込むことによって、柱の継ぎ手であるこのオハシラサマは真のオハシラサマになるという寸法なんです」
そのとき、葛ちゃんの説明を聞いていたサクヤさんが突然口を挟んだ。
「だけどね、あり方が変わるっていうのは、まったく別のものになるってことなんだ」
そう、水が器に従うように、魂の在り方もまた形に縛られやすい。葛ちゃんの話通りにオハシラサマが真のオハシラサマになってしまうということは、わたしの目の前にいるこの人はもう二度と人の姿に戻れないということだ。
それを意味するサクヤさんの言葉を聞き、わたしはハッとした。
「なあ、今ならまだ引けるんだよ。葛さえその気になってくれれば、普通の人間に戻ることだってできるんだよ」
サクヤさんの言葉には忠告ではなく、オハシラサマに消えないで欲しいという願いが込められているように聞こえた。もしかして、サクヤさんはオハシラサマとかつて知り合いだったのだろうか。
そんな疑問が頭に浮かんだが、それを問う間もなく、オハシラサマはきっぱりとわたしたちに告げた。
「いえ、それはできません」
髪に頬を打たせながら、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「主の封じを解いてしまえば、大変なことになってしまいますから」
そして、透明なほど白い笑顔をわたしたちに向けたあと、言葉を続けた。
「ですから葛さま、お願いします」
オハシラサマはまっすぐ葛ちゃんを見つめながら、自ら望んで真のオハシラサマになることを告げた。
一体どんな気持ちで人柱を継いで、どんな想いで人ではないものに成ったのだろう。今の胸の内はどうなのだろう。それを考えると、見た目はわたしとそう変わらない年齢のこの人がとても強い人だと感じた。そして、そんな彼女の瞳に浮かんだ決意を受け止められる葛ちゃんもすごい女の子だと思った。
「わかりました」
即答されたその返事は、無理解からくる軽い気持ちのものではなかった。葛ちゃんは大切なものを守るために、多くのものを切り捨てて、時には自分の気持ちすら抑えないといけないことを知っていた。
それを自覚してか、葛ちゃんは誰にともなく呟くように口を開く。
「在り方が変わるときに別のモノになるのは、慈悲でもあるんですよ︙︙ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとをしく、かなしと思しつる事も失せぬ︙。そういうことです」
「︙︙︙︙」
それで納得したのか、それとも何を言ってもオハシラサマの覚悟が揺るがないことを知ったのか、サクヤさんも押し黙っていた。
「でも葛ちゃん。こんなことをしなくても、主を別の安全なものに変えたりはできないの?」
「桂おねーさんは粘土で人形を作れますか?」
「上手いかどうかはともかく、できるよ」
「では、石ではどーでしょう?」
「最初から人の形に似てる石なら。顔を描いたりして︙︙」
わたしはようやく葛ちゃんが言いたいことを理解する。
「解っていただいたようですね。変造術も似たようなものなんですよ。変える対象によって必要になる力もかなり変わってくるわけです。それでですね、その︙︙」
葛ちゃんがご神木に向かって視線を泳がせる。
「今のわたしの力では︙︙」
主を封じているほどのものなのだから、きっとかなりの大物なのだろう。それに代わる力を葛ちゃんに与えるには、あれしかない。
「うん、わかってるよ」
オハシラサマの覚悟が変わらないなら、わたしにできるのはそれが無駄にならないように手助けするだけだ。だから、わたしは地面に膝をつき、葛ちゃんが血を吸いやすいように身長差を埋めた。
「では桂おねーさん、いただきます」
「うん︙︙どうぞ」
わたしの首に腕を回して、葛ちゃんが遠慮がちに顔を寄せてくる。
わたしは顎をもたげ、肌の柔らかい場所を葛ちゃんに示した。
「はぅ︙︙」
葛ちゃんの口から漏れる息が首筋の肌を湿らせ、どの辺りに噛みつくのかを事前に予告してくる。既に一度血を吸われているとは言え、心臓の鼓動が速くなり、背筋がぞくっとした。
「あ︙︙むっ」
牙の先端が肌に触れ、ちくりとする痛みに続いて、一気に牙が肉の奥深くに挿入された。
「くっ!!」
肉を抉る牙に身を固くして痛みを訴えると、かなり大げさな動きで葛ちゃんが後ろに引き下がった。
「うわわっ、ごめんなさいですっ!」
いつの間にか生えてピンと上を向いていた筈の狐耳が、しゅんと垂れ下がっているのが何だか可愛くて、わたしは痛みを忘れて笑ってしまう。
「あはは、別にいいんだよ。ちょっとぐらい痛いのは、最初からわかってたことだもん」
離れた葛ちゃんに抱きついて、頭を抱え込んで唇を首筋に導きながら告げる。
「だけど葛ちゃん」
「ななっ、何でしょーか!?」
「葛ちゃんのその格好って、犬歯尖って牙になってて、血を吸うのに向いてるよね」
「たはは。これは単に尾花譲りのデフォルトでして、別にそーゆー他意は︙うひゃっ」
今度は葛ちゃんの身体がびくっと跳ねて強張った。
「おおおっ、おねーさんっ!? なに尻尾触ってるですかーっ!?」
「いや、ふさふさで手触り良さそうだなって思って。嫌だった?」
そういえば尾花も、頭や背中は撫でさせてくれたけれど、尻尾だけは嫌がって触らせてくれなかった。そう思いながら、わたしは言葉を継ぐ。
「ねえ、嫌かな?」
「別にその、嫌とかそーゆーのでは︙︙」
尻尾を撫でると身じろぎするのに、それでも嫌と言わない葛ちゃんが健気で可愛かった。その様子を見ながらわたしは調子に乗ってしまう。
「じゃあ吸ってる間、触らせてもらうね」
「えっ!?」
「ほらほら、我慢できるなら、たくさん吸ってもいいんだよー」
尻尾の先からお尻に向かって逆撫ですると、葛ちゃんはぶるぶると身体を震わせ、うっすら涙を浮かべた目で見上げてくる。
「あのですね、オハシラサマをちゃんとするには、かなりの力が必要なんですけど︙︙」
「それじゃあ、葛ちゃんも頑張ろうね」
わたしは笑顔を葛ちゃんに向ける。
その後、葛ちゃんはわたしの責めに必死に耐えながら血を吸っていた。
「ううっ、ひどい目にあいました︙︙」
「災難だったねぇ」
サクヤさんは葛ちゃんに同情する。
「災難でした」
人の血を吸っておきながら、災難と言うのはちょっと酷いのではないだろうか。わたしはそう思ったが、代わりに狐の尻尾を一生分触れたと思えば安いものかもしれない。そんなことを考えていると、オハシラサマがすっと足を踏み出し、葛ちゃんに声をかけた。
「では始めましょうか」
「よろしくお願いします」
「ところで葛さま、その前にお願いしたいことがあるのですが」
「何でしょう?」
「贄の血を封じる、あるいは変造して普通のものにする。そういうことは可能でしょうか?」
「多分できると思いますよ︙︙桂おねーさんのことですね?」
「はい」
盲点だった。
わたしが鬼に狙われたのは贄の血を引いているからで、確かにそれがなくなってしまえば物の怪たちに指名されることは今後なくなるわけだ。そこまでオハシラサマが考えていてくれたなんて。そう思うと、とてもありがたく、同時にどうしてこの人はそこまでわたしを護ってくれるのだろうという考えが脳裏をよぎった。
「おねーさんのことは任されました。他にも心残りがあるとそれが思わぬ抵抗になってしまったりもしますから、他にもあるなら言うだけ言ってみて下さい」
「では、主の分霊に憑かれて鬼になってしまった子が他にもいるんですけれど」
オハシラサマのその言葉に、千羽さんがぴくりと反応した。
「その子のことも、お願いしてよろしいでしょうか?」
「そうですね。分霊が外にいては強化した封じを破られてしまったりするかもしれませんから、それも請け負います」
葛ちゃんは千羽さんのほうを見ながら頷いた。
「烏月さん、千羽党も鬼切り役なら、鬼だけ切ることぐらいできますよね?」
「勤めます」
千羽さんは葛ちゃんの問いかけに頷き返す。
「だそうです。他には?」
「いいえ。十分です」
オハシラサマは目を伏せ、葛ちゃんに一礼した。
「では︙︙」
それを受けて、葛ちゃんは柏手を打つ。破裂するようなその音は、そこにあった様々な音を一瞬で吹き飛ばし、暑さに緩んでいた空気をぴんと張りなおした。残響音が消えると厳かな静寂だけがそこにあった。
「封じの柱の儀を行います」
静寂の中に葛ちゃんの言葉だけが響いた。
その言葉と同時に、周りの木々がざわめき始めた。言葉は事象の発端となり、言霊が木に宿る霊を震わせていく。八十、八百、八千を超える無数の葉がさざめき、葛ちゃんの言霊に同調し共鳴して、山の木霊が言霊を増幅させていく。
細かく震える葉が、空から落ちてくる月光を複雑に反射して煌いた。青白い光を浴び、大きな木がきらきらと光って見える。
さらに数秒が経つと、木々のざわめきはより大きくなり、空気が微かに振動した。光はいつしか葉から枝へ、枝から幹へと広がっていき、そして最後にはご神木自体が月の光を放っていた。
「うわ︙︙凄い」
あまりにも呆気にとられる光景を前に、わたしは呆然と立ち尽くしていた。周りを見ると、サクヤさんが悲しげな表情で立っていた。その脇には相変わらずポーカーフェイスの千羽さんがいる。
そして眼前に視線を戻すと、ご神木の放つ光の中にオハシラサマの姿が溶け込んでいくのが見えた。彼女は最後に穏やかな笑顔を残して、光に包まれていく。
「桂ちゃん、さようなら︙︙」
それがオハシラサマの最後の言葉だった。
空には月。眼前には月に向かって伸びるご神木がある。
夜を覆うほどの光を放つ前と後では、一見したところ何らかの変化があったようには見えない。だが、その根元にオハシラサマの姿はなかった。ただ、はらはらと花びらの蝶が舞い降りていた。
その中の一枚がわたしの掌の上に舞い落ちる。
花びらは温かな感触を残して淡雪のように消えてしまい、わたしの中へと染み込んだ。そのひとひらを最後に、目に見える霊的な現象は終わった。
落ちてくる花びらはもうただの花びらで、それ以外の何物でもない。目に見える光景はつい数分前と同じで、オハシラサマのご神木は悠々と月に向かって伸びている。
ただ、そこに彼女はもういなかった。
わたしの斜め前に立つ葛ちゃんに声をかける。
「葛ちゃん、ご苦労さま」
「たはは、もうへろへろです」
その言葉を受けて緊張感の糸が切れたのか、葛ちゃんは崩れ落ちそうになった。その身体を抱きとめ、小さな頭を抱えた。
「桂おねーさんから《力》をもらっていなかったら、とてもじゃないけど無理でした」
非力なわたしが支えられるほどしかない、小さくて軽い身体。抱え込めるほど細い肩。そんな身体で頑張った葛ちゃんを、わたしは誉めてあげたかった。
「それじゃあ、また飲む?」
「いえ︙︙」
葛ちゃんはわたしからすっと身体を離し、神木へと歩きながら首を振って言う。
「ねえ、桂おねーさん」
人ではないモノの側に寄りながら、言う。
「わたし、いよいよ人間離れしてしまったんだと、ようやく実感が沸いてきました」
「あ︙︙」
自分がとんでもなく馬鹿なことを言ってしまったと気がついた。
葛ちゃんの表情は吹っ切れたような笑顔だったが、彼女は悲しいときに笑うのが上手な子なのだと思い出す。目先のことで一杯になり、大事なことを忘れてしまったわたしは大馬鹿だ。
「そのね、葛ちゃん。気に障る言い方しちゃったんなら︙︙」
わたしは慌てて言い直す。力のせいで鬼の世界から逃げられないなら、若杉の当主として闇を統べる鬼切り頭で在り続けるしかないのなら、わたしはずっと贄の血を引いたまま葛ちゃんの傍にいようと思った。
「だから︙︙」
一歩、側に寄ろうとしたわたしを突き出された手が押し留めた。
「いえいえ、桂おねーさんの失言などではなくてですね。でも︙︙」
そう言いながら、葛ちゃんは軽く顔を伏せる。爪の伸びた手と額にかかる前髪に遮られて葛ちゃんの顔が見えない。
「やっぱりおねーさんとは一緒にいられません」
ゆっくりと手が角度を変えたそのとき、指の隙間から僅かに瞳が見えた。
「一緒にいたくても、駄目なんです」
その瞳も爪と同じく獣相を帯びた、人に在らざるものの印だった。
「ですから、桂おねーさん」
葛ちゃんは顔を上げると、軽い笑顔を浮かべながら言葉を続けた。それは泣きたくても泣けないときに浮かべる笑顔。とても寂しい笑顔だった。
「この数日のおねーさんの記憶も、封じさせてもらいます」
「えっ!?」
そう言った途端、葛ちゃんの瞳が言葉に込められた《力》に感応して自ずから輝いた。
鮮烈な赤。夕焼けの赤。それがわたしの眼に入り込む。紫がかった光を残して消えていく残照が事切れると、次の瞬間には夜闇だけがそこにあった。
夜の闇。それは眠りの時間を示すもの。それが葛ちゃんの力で生み出された現象だと頭では理解していたが、仮初の情報を与えられて騙されたわたしの脳は認識する時刻の変化と共に心を無防備な緩んだ状態にさせた。まるで布団に包まれて、夢のなかを漂うときのように。
そして尾花から受け継いだ言霊の《力》を発現させた葛ちゃんの声が頭の中で響いた。

「さようなら、です︙︙」
葛ちゃんの声がわたしの頭の中に染み透る。その響きが中心にあるものを揺さぶり、あるものを剥がして落とし、またあるものを作り変えていく。すべてを夢に。目覚めると忘れてしまう、そんな儚い記憶に。
わたしは抵抗しようとしたが、無駄だった。
突然周りの光景がブラックアウトし、そこでわたしの記憶は途切れた。
§
陽子ちゃんと遊んだり、お凛さんの家にお呼ばれしたり、放ったらかしだった宿題を片付けたりしているうちに夏休みは終わってしまった。
衣替えはまだだったが世間はだんだんと秋めいてきていて、一応の都市部であるわたしの町の空はからっと高く澄んでいる。
顔を上げて空を見上げると、そこには雲ひとつない、秋晴れの空が広がっていた。
雲ひとつない、秋晴れの空。
それは不安やわだかまりのない、清々しい心を例える言葉のひとつでもあるが、わたしはその何もなさ故にどうしようもない落ち着きの悪さを感じてしまう。それは心の中のどこかに、あんな風に澄みきった空っぽの場所があることを自覚しているからだ。
そう考えると、反射的に脳裏で言葉が閃いた。
ああ、そうだ。
わたしはなくしてしまったから。
大切な人がいなくなってしまった。
誰を?
それはもちろんお母さんと
と?
お母さんと
「それで︙︙はとちゃん、聞いてる?」
「え?」
陽子ちゃんの声で我に返る。
考え事を始めると周りの景色が見えなくなる相変わらずのわたしは、慌てて愚にもつかない思考を振り払った。
学校からの帰り道、わたしは陽子ちゃんと一緒に通学路を歩いていた。
「あ、聞いてる、聞いてる。ちゃんと聞いてるってば」
「んもーっ! はーとちゃんってば、夏休みに田舎行ってから変だよ?」
「あ、うん︙︙」
陽子ちゃんの言う通り、経観塚へ行ってからのわたしはちょっと変だった。
「︙︙大切なことがあったような気がするんだけどね」
「思い出せないとか?」
「うん︙︙多分気のせいだとは思うんだけどね。何か大事なことを忘れてるような気がするの」
とは言うものの、経観塚での出来事はちゃんと覚えている。
鎮守の森のお屋敷は、暮らすのにも不自由するようなところだった。ただ、仕事で偶然来ていたサクヤさんのお陰でご飯には不自由しなかった。そこで二日間を過ごした後、わたしはサクヤさんの車の後部座席でまどろみながらアパートへの帰路についていた。
それだけだ。なのにどうして、何か大事なことを忘れている気がするんだろう?
そんなことに思いを巡らしながら歩いていると、わたしたちは二人組の女性とすれ違った。うち一人は、ボーイッシュな感じのする小学生くらいの女の子だった。
知らない子のはずだった。
だけど何か引っかかる。頭の中で警鐘が鳴っているような気がした。気のせいだろうか、それともデジャヴのようなものだろうか。その女の子を以前にも見たことがあるような気がした。
「ねぇねぇ、もしやアブダクションとか経験しちゃった?」
「えっ、なに?」
わたしは陽子ちゃんの声で再び我に返る。
「だから、アブダクション」
「︙︙らくらく痩せる電気ベルトのあれ?」
「うわー、アブしか合ってないんだけどー」
「あはは、ごめんごめんー」
「天然成分のボケっぷりまでパワーダウンとは、ずいぶんとまた重症なのねぇ」
「あはは、そうだね」
確かに重症なのだと思う。
だけど十年前にお父さんを亡くした時のそれに比べれば、お母さんを亡くしてしまったという痛手の割には、心の傷は比較的浅いのではないだろうか。わたしはこうして毎日を平和に暮らしているのだから。
だったら、それでいいのだろう。空っぽなら、これから詰め込めばいい。
本当に大切なことなら、いまこのときに思い出せなくても、何かを忘れているような気がしても、いずれ思い出せる筈だ。例えば二、三ヶ月前に陽子ちゃんとしたことを思い出せなくても、それでも陽子ちゃんとの思い出は今この瞬間にも上書きされていく。
記憶は漏れていくものだから、漏れるものは漏らしていこう。
先程すれ違った女の子の顔をかつてどこかで見ていたとして、それを覚えていたところでわたしの人生に大きな影響があるとは思えない。
そう考えながらふと振り返ってみると、偶然にもその女の子がこっちをふり向いて一緒にいた女の人と話をしているのが見えた。
一緒にいる女性は高校生くらいだろうか。とても長い黒髪をした綺麗な女の人だった。
小学生くらいの女の子は彼女に何かを告げると、突然わたしたちの方に走ってきた。やはりどこかであったことのある子なのだろうか。怪訝な顔をしたままのわたしの前に立ち止まると、女の子はわたしの目を見ながら話し出す。
「あ、あの、おねーさん?」
「ん、なに?」
「あのー、えーと、この近くの駅までの道が知りたいんですけど」
「あ、駅。えーとね︙︙」
わたしがしどろもどろしているのを見かねて、陽子ちゃんが代わりに駅までの道順を説明する。説明している間も女の子はわたしの顔をチラチラと見ていた。
「わかった?」
「わかりました。ありがとうございました」
気がつくと女の子と一緒にいた女性もわたしたちの前にいて、礼を言いながら頭を下げた。間近で見ると、本当に綺麗な人だった。おそらく、この女の子のお姉さんなのだろう。
わたしたちは二人に手を振り、再び歩き始めた。
そのとき、背後から二人の会話が少しだけ聞こえた。
「こんなに辛いなら、やらなければ良かったです」
「どんなに後悔しても、時間を巻き戻すことはできません」
「そうですね︙︙」
「葛様、戻りましょう。わたしたちのいるべき場所に」
「︙︙はい」
よく解らなかったが、あの二人には何か辛いことがあったのだろうか。
わたしはもう一度振り返ったが、既に二人の姿はなく、見えたのは秋風に舞い運ばれる落ち葉だけだった。
二人の少女にはその後、二度と会うことはなかった。
【完】
§
あとがき ※当時のものとなります
今年の2月から連載してきましたWebノベル『アカイイト』、今回でようやく完結することができました。お楽しみいただけたのであれば嬉しい限りです。
『アカイイト』はゲーム化も決定し、発売も間近に迫りました。実はこのWebノベルはゲーム中で語られている物語のひとつに過ぎませんし、小説ということでゲーム中のシナリオとは若干違う部分もあります。ゲームの中では、更にこの何倍ものボリュームがある妖しくも切ないストーリーやドキドキする展開をお楽しみいただけるでしょう。そして、Webノベルでは伏せられたままの謎も、プレイ次第で明らかにされていくことでしょう。
Webノベルではちょっと寂しい結末になってしまいましたが、ゲームではそれ以上のハッピーエンドを目指してプレイしていただければと思います。
9ヶ月に渡って最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
二〇〇四年 十月 十五日
『アカイイト』Webノベル・スタッフ一同