ひととせのひとひら「睦月」
「うわー、寒っ」
およそ気体というものは暖められると膨張し、冷やされると収縮するものだと、いつだが覚えてないほど昔に授業で習ったものだけれど、どうやらそれは人体にも当てはまるらしい。
例えばわたし羽藤桂も、炬燵や湯船に身を委ねると、ふやーっとだらしなく弛緩する。
そして現在、極楽的なそれらと正反対の環境下にあり、わたしは身体を縮こまらせている。
吹きさらしの寒空の下草木も眠る丑三つ時すらとうに回った、むしろ早朝と称すべき時間に、わたしは屋根も壁もない屋外にいた。
慣用句として「夜明け前が最も暗い」と言ったりするけど、お天道様の恵みが光と熱なら、今この時こそが寒さも同時に一番なわけで。
目下の状況、まさにそれ。
ふんわりとした毛糸をたっぷり使った手編みのセーターの上に、羽毛の詰め込まれたダウンジャケットを重ね、もこもこ着ぶくれしていても、寒いものは寒いのだ。
肩をすぼませ背中をまるめ、その場で小さく足踏みしながら、身体同様、毛糸の手袋で着ぶくれした両手を擦り合わせ、ほんの少しでも温まろうと健気に努力するわたし。
「寒いよ、寒いよ、すっごく寒いよー」
と、言葉と共に漏れる吐息を白く曇らす熱すら惜しみ、顔の下半分を覆うように構えたてのひらで受け止めたりもして。
手袋越しにもじんわりと熱が沁み、つくづく人間という存在は、ただ生きて呼吸しているだけで熱を放出するものなんだな、地球人口が増え続けている以上温暖化もやむなしなんだなと、変なところに思考を巡らし
「って、温暖化とか問題になってるのに、何でこんなに冬は寒いのー!?」
「はとちゃん、何をもごもご言ってるの︙︙」
自分自身でツッコミを入れたところで、後ろからひょっこり顔を出してきた我が親友、奈良陽子ちゃんが呆れ混じりの言葉を重ねた。
それに勢いと愛が足りないように思えるのは
「だからね、地球温暖化がね︙︙」
「え? 何?」
単にわたしのつぶやきが、口元にやった手に遮られていただけらしい。
ほうっともう一息、体内の熱を移した空気で指先を温め、わたしは名残惜しげに顔の前から手を遠ざける。
「別に、寒いって言ってただけだよ︙︙」
「まったく、いい若いもんが情けないわねー」
「ううっ、情けなくても別にいいもん。寒いものは寒いんだよ」
とはいえ寒いとごちたところで、それで暖まるわけでもない。
小さな声でつぶやくよりも、大きな声でおしゃべりした方が暖まる道理。
「陽子ちゃん、よく普通にしてられるよね」
「ふふん、この程度の寒さにやられる陽子さんじゃないってことよ! 子供は風の子元気な子! 陽子の陽は太陽の陽!」
丸めるどころか背中を逸らし、わたしほどには着ぶくれてない、すっきりしたラインの胸を張って言う。
「︙︙北風と太陽どっちなの?」
旅人の上着を脱がせる勝負する童話性格的には陽子ちゃんは北風派だと思います。はい。
「両方よ! 言うなればあたし太陽風!」
「へー、そうなんだ︙︙」
有害な宇宙線から地球を護ってくれているのが太陽風らしいんだけど、たぶん陽子ちゃんノリだけで言ってるよね。含みなんてぜんぜん持たせていないよね。うん。
「それにね、はとちゃん! 今夜はあんたのお株を奪う」
「用意周到、ですわね」
「お凜ーっ!! あんたはそうやって、いつもいつも人の台詞をーっ!?」
「はい、羽藤さん。お茶どうぞ」
「あ、ありがとうお凜さん」
陽子ちゃんの抗議を軽く無視して、もうひとりの親友お凜さんこと東郷凜さんが、いかにもお茶でございといった意匠の、黄緑色のスチール缶を手渡してくれた。
もちろんホットのほかほかだ。
素手ではお手玉必至だろうそれも、厚手の手袋越しの手には、むしろ熱さが心地良く頼もしい。
「ホントはこれ、はとちゃんのほっぺたとかにくっつけてやろうかって思ったんだけどねー」
「実行に移さなかったのは賢明でしたわね。火傷でもしたらどうするつもりですか」
「その時は責任とるけどさー、やっぱ冷たいの買って来れば良かったかしらん」
「その時は陽子ちゃん、責任もって自分で飲んでよね」
「さすがにあたしもそれは勘弁」
ホットココアの缶を開けながら、ぺろりと舌を出す陽子ちゃん。
それを見て、脳裏を横切る思考がひとひら。
「︙︙あ」
「あ?」
「な、何でもないよ。気のせいだよ」
わたしはお茶の方が好きだけど、この寒さの前には甘くてカロリー高そうなココアの方が良かったかなとか、そんなことを口に出すなんてとてもとても。
そもそもお茶がいいと言ったのはわたしなんだし、それに冬休みに入ってから美味しいものを食っちゃ寝してる気がするから、こういう時ぐらいカロリー控えめにしないと後が怖いし
「はとちゃん?」
「羽藤さん?」
同時に異音で名前を呼ばれ、わたしは思考のブレーキを踏む。
いけない、いけない、またやっちゃった。
「だから何でもないよ? すっきりスリムな陽子ちゃんに比べて、わたしがこんななのは、単に着ぶくれしてるだけだし」
「はとちゃん、もしかして太った?」
「プラス何キロ?」
もしかしなくても、わたし自爆した?
何か考えると人の話が聞こえなくなっちゃうし、じっくり考えないと余計なこと言っちゃうし、世の中って難しい。
とはいえそういう経験を重ねたからこそ生まれた処世術だって、ないこともないのだ。
「えーと︙︙」
桂曰く、そんな時は強引に話題を変えるべし。
「陽子ちゃんの用意周到って、結局何だったの?」
「そうそう、それそれ、それなんだけど」
もともと陽子ちゃんはそっちを話したかったんだから、この誘い水には乗ってくるよね。うふふ、わたし策士だよ。
「いいこと、はとちゃん! 聞いて驚け!」
「わー、すごーい」
「驚くの早い!」
ぺしっと頭をはたかれた。
ごめんなさい、ちょっと調子に乗りすぎました。
「それで奈良さん、何ですの?」
「実は秘密兵器っていうか、この下に着てる薄いがね」
昨年あたりから売り出されている、何とかという新素材製とのことだった。
高い保温性に加え、吸湿発熱という身体から蒸発する水分を熱エネルギーに変える仕組みのおかげで、汗をかいても体温が奪われることもなく、かえって暖かなのだそう。
地味にかなりのハイテクだった。
「すごいね、科学技術の進歩だね」
合成繊維のことなので、ここは化学と言うべきだろうか。
十年に渡り浮世を離れていた柚明お姉ちゃんわたしの従姉妹は、携帯電話のようなわかりやすい変化に驚いていたけれど、ブランクのないわたしだって、知らぬ間にこういうものが出ていたりするのだから、世の中ぼやぼやしてられない。
「奈良さんって、新しいものとか珍しいものとか好きですわね」
「まーね。だけどこれ、きっとそのうち流行るわよ」
確かに、寒さに歯向かう根性なしでも着ぶくれから解放される良いものなら、特に女の子には人気が出るはずだ。
ものの価値的に、今着ているお姉ちゃんの手編みセーターとは比ぶべくもないけれど、それでも少し心が動くのは仕方のない事だと思う。
いけない、いけない。
ふるふる頭を左右に動かし、浮かんだ邪念を振り払う。
閑話休題、閑話休題。
「︙︙そういえばお凜さん」
「何でしょう?」
「お凜さんもそんなに厚着に見えないけど、そういうすごいの着てるのかな?」
「いえ︙︙わたくしは例年通りで、特に変ったものは着てませんけど?」
両手を軽く開いてみせて、その場でくるりと一回転。
そんな仕草がモデルというより日本舞踊のように見えてしまう彼女のお召し物は、クラシカルな風合いが上品なコートとマフラー。
どちらもシルエットを野暮ったく崩すようなものではなく、春物だと言われても納得できそうなほど、軽やかにしゅっとして見えるものだった。
「うーん、やっぱりあれかな? 心頭滅却すればってやつ?」
クーラーのない夏場の教室でも、汗は控えめなお凜さんだけに、その逆もまたありそうなわけで。
「さて、どうでしょう?」
頬に手を当て小首を傾げ、鷹揚に微笑む彼女を見ていると、きっとそうに違いないと思えるわけだけど
「はとちゃん、騙されちゃ駄目よ!」
台詞を取られたいつぞやの仕返しとばかりに、割り入ってくる陽子ちゃん。
「いい? 例年通りとか言って、お金持ちってのはいつでも良い物着てるわけ」
「言われてみれば、そういうものかも︙︙」
「ちょっとお凜! マフラーだけならいざ知らず、コートまでカシミアって、あんたどれだけお嬢なのさ!?」
「あら? フェイクかもしれませんわよ?」
「賭けてもいいけどそれはないわね。あんたがそういう態度のときは、決まって高いものなのよ」
「うわ、ほんとだ、すごいすべすべー」
などと言いつつわたしには判別つかないし、手袋越しなので実際の感触はわからないんだけど、スタイルのいいお凜さんの身体をなで回すのは、ちょっと楽しい。
「あらあら、羽藤さんったら」
そう言って笑うお凜さんも、ちょっと楽しそう。
そうしてふたりでじゃれあっていると、陽子ちゃんがわたしの腕を引っ張って、お凜さんから引きはがした。
「はとちゃん! 庶民は庶民同士、お金のかからない方法であったまるわよ!」
「え? 何? どうするの?」
「こうよっ!」
「ふぎゃっ!?」
どーんと身体をぶつけられた。
勢いを付けるだけの距離がなかったから、尻餅を付いたりはしなかったけれど、陽子ちゃん結構本気だった。
おのれ、おのれ、陽子ちゃん。
「ふっ、悔しかったらやりかえせばいいじゃない」
「わたし本気出したらすごいよ。立ち会いに増量の効果出てるよ」
「やっぱり太ったんだ?」
「どすこーい! どすこーい!」
えいやと少し本気で身体をぶつけるものの、貧弱な体力ともこもこの服がクッションになり、痛いと感じる衝撃はなし。
「笑止、笑止、笑止千万! はとの海、おぬしの地力はその程度のものか!?」
「まだまだだよ! 覚悟しませい奈良錦!」
「押しくら饅頭ですか。わたくしも混ぜてくださいな」
「べーだ。お金持ちは饅頭じゃなくて、もっと高級なお菓子食べてりゃいいのよ!」
「あら、『その値十三石』って結構な額ですのよ?」
それからしばしわたしたちは、押し合いへし合いぎゅうぎゅうと、互いの身体を押しつけあった。
そして
「体力の︙︙限界︙︙」
「はい、はとの海の負けー! 押されて泣くんじゃないわよー?」
「ううっ、泣いてなんかないよ︙︙」
真っ先に息の上がったわたしがギブアップすることで、初場所は幕を迎えた。
わたしがふたりに挟まれて、集中砲火を受けた結果の黒星には納得できないんだけど。
まあ、暖まったからいいんだけどね。
遊んでいる間に、すっかり冷えてしまったお茶も美味しく感じられたし。
「だけどさー」
「何?」
「はとちゃんとこの柚明さん、よくこんな時間に出歩くの許してくれたわね」
「あの方、羽藤さんのことになると、過保護すぎるところがありますしね」
「ま、まあね︙︙」
すでにふたりには知られているので、今更隠すことでもないわけだけど。
「だけど今日は年に一度の特別な日だし、わたしだって小さい子供じゃないんだし、何より安心と実績の羽藤桂さんですから︙︙」
「で、実際のところは?」
「︙︙『陽子ちゃんとお凜ちゃんが一緒だったら心配ないだろうけど、とにかく気をつけてね』だって︙︙」
「安心と実績はわたくしたちのものでしたのね」
「ま、旅の荷物を忘れたはとちゃんを、万事フォローしたこともあるわけですし?」
「ううっ、その節はご迷惑をおかけしました︙︙」
「だけどそんなに心配なら、柚明さんも来れば良かったのに」
「わたしもそう思ったんだけどね、『そういうことは保護者抜きの友達同士でした方が、後々のいい思い出になるのよ』って︙︙」
「保護者︙︙保護者ねぇ︙︙」
陽子ちゃん、ふと何か思い当たったのか、きょろきょろ辺りを見渡して。
「もしかしてお凜、さっきのはとちゃんのその節にいたあんたんちの若い人たちっていうかぶっちゃけSP? 黒服? こっそりここにも付いてきてる?」
「わたくし存じてませんけど」
「またまた、知らないふりしてるだけでしょ?」
「さて、どうでしょうか」
「ま、携帯のGPS機能とかあるわけだし、刑事物のドラマみたいに、電柱の影からこっち見てるってことはないだろうけど」
「実際、あんたこういうことしてていいわけ?」
「帰宅したらそれからしばらく最低三日は拘束されることが決まっているのですから、このぐらいは多目に見てもらわなくては」
「あー、お父さんと一緒に挨拶回りとかするんだっけ?」
「お凜ちの場合は回られでしょ」
「それはまあ、そうなんですが」
お凜さん、少しだけわざとらしくため息を吐き。
「とはいえ、朝から晩まで振り袖着たまま、にこにこ笑顔で応対ですのよ?」
「お凜、そういうの得意でしょ」
「小さい頃からこうでしたから、慣れてしまっただけですわ」
不本意ですと愚痴りながらも、それはガス抜きの口先だけのようで
お凜さんはいろいろすごい自慢の友達なのだけれど、何より彼女のすごいところは、かけられる期待や責任の重さを理解した上で、それを投げ出さないことだ。
お凜さんのそういう面に触れると
ちょうど今と反対の季節に、出会ったあの人たちを思い出さずにはいられない。
「本当、大変だよね︙︙」
家やら組織のことやらでお凜さん以上に忙しいだろうから、お正月の間に会うのはちょっと難しいけど、電話ぐらいはいいよね?
まあ、電波が届かなかったり留守電とかだったりして、後々向こうからかけ直してくれるのを待つことになるのが、いつものことなんだけど。
みんな、元気にしてるかなぁ︙︙。
「はとちゃん?」
「え?」
「まーたぼーっとしてた。考えごと?」
「あー、うん、ちょっとね」
「まあ、羽藤さんもいろいろ感慨にふけることも多いのでしょう。去年一年、大変でしたものね」
「あはは、大丈夫、大丈夫」
波瀾だらけで溺れそうにもなったけど、本当に今は大丈夫。
なくした誰かの代わりにはならないけど、違う形で支えてくれる人達がわたしにはいる。
おかげでこうして心も身体も健やかなまま立てている。
「だけどお凜さん、振り袖着るんだね。すっごく綺麗なんだろうなー」
「お凜の着る振り袖とか、帯だけとかだけで洒落にならないお値段になりそうね︙︙」
「いいなー、見てみたかったなー」
「しばらくはうんざりでしょうけど、機会があれば喜んで」
「じゃあ、そのときはよろしくね」
「では、わたくしのうんざりが治まり次第、お茶会でも催しましょうか」
「え? お茶会? わたし茶道とかわからないよ!?」
「内輪で楽しむ会ですから、堅苦しいことは何もあ、奈良さんはきちんとしてくださいましね」
「なんでだーっ!?」
ひとりでは持て余す時間でも、仲良しの誰かと一緒だと、何でもない話をしているだけで、あっという間に過ぎ行くものらしい。
「さて、そろそろ」
まだ明けぬ夜闇の中に、液晶画面のバックライトがぽっと灯る。
携帯電話を取り出したお凜さんの右と左に身を寄せて、わたしと陽子ちゃんも画面端に居並ぶ数字を確認する。
「時間よね」
「うん」
デジタル時計が示しているのは、夏場ならとっくに青空が広がっている時間だということ。
「ええと、東ってどっちだっけ?」
「あちらですわ」
そして、真冬の今はこれからで
三人並び、その時を待つ。
「あ」
まばゆい光を背に受けて、東に居並ぶ山々が、その稜線を黒く浮き立たせた。
先刻まで真っ暗だった空の明るさが、対比で余計に際だっていて。
朝焼けに染まる雲の色は、赤と青の中間の
漢字で二文字、東の雲と書いて「しののめ」と読む。
どうしてそう読むのかはわからないけれど、きっと「紫」や「始」の字を当てるのではないかと、そんなことをふと思った。
新しい朝が来た。
新しい月が来た。
新しい年が来た。
何もかもが真っ新な夜明け
だからにここでもう一度、待ち合わせ場所で最初に交わした言葉を、白く曇った息を交えて繰り返す。
「明けまして、おめでとう!」
図らず隣に立つふたりも、同じ考えだったらしい。
ぴたりとぶれなく重なった声に、思わず顔がにっこりほころぶ。
見合わせた顔も、これから気温を上げてくれるだろう太陽の温もりを先取りするように、あたたかな笑顔で満ちていた。
笑う門には福来たる。
故に、一年の計は元旦にありなんてべたべたな洒落を思い浮かべたわたしこと羽藤桂は思うのだ。
今日から始まるこの一年それが贅沢だと言うのなら、せめて始まりのこの一月、世界中が睦まじく、笑いと幸せに満たされていればいいと。
そんなことを思っている間にも、生まれたての太陽はぐいぐい高さを増していき、清々しいまでの青さで空を満たしていき
そんな希望に満ちた中、心を込めて頭を下げる。
「今年も一年、よろしくお願いします!」
そんな睦月の始まりの朝。
これから始まる、ひととせのひとひら。
《ひととせのひとひら「睦月」了》