ひととせのひとひら「如月」
夏が終わり、秋が去って、しんと冷え込む冬が来た。
未だその冬の最中なのだけれど、暦の上ではすでに春。まさに光陰矢の如し。
迎えたばかりに思える新たな年も、いつの間にやら十二分の一と少しが過ぎ去った二月、如月。更衣とも書くそうだけれど、この「更」は衣更えの更なのだろうか、更に衣を重ねるの更なのだろうか。
かく言うわたし羽藤桂は、備えあれば憂いなしの座右の銘に恥じぬセーターを着込んだ制服の上にダッフルコートとマフラーという完全防備のいでたちで、後者の更衣だったりする。それはもう、お母さんゆずりのプロポーションの「プ」の字もないぐらいに着膨れしていて
ごめんなさい、嘘つきました。
もともと人様に自慢できるほどのものじゃないです、はい。
しかも今はダッフルコートの色形ともあいまって、陽子ちゃんにはペンギンのようだと揶揄されたりするていたらく。
ううっ、これでも脱げば陽子ちゃんよりは凹凸あったりするのに
そりゃあ、お凛さんには全然敵わないけれど、食生活の差かしらん。
白くまあるく吐かれた息が、寒空の中に散っていく。
「︙︙で?」
隣を歩いていた陽子ちゃんにせっつかれて、わたしははっと我に返る。いけない、いけない、いつもの悪い癖が出た。わたしはふっと思い浮かんだ考えに心を向けると、周りのことが判らなくなる性質なのだ。
そんなわたしに、陽子ちゃんはわざとらしくもまぶたを半分落としたような目で、じったりとした視線を送ってくれたりしちゃっている。
ううっ、さっき考えたこととか顔に出ちゃったりしたんだろうか。
否。それはない。ないはずだ。
さらされた顔をカチカチに強張らせてしまう空っ風は、クールなポーカーフェイス作りに一役も二役も買ってくれているはず。
にしても外、寒いなぁ︙︙おうちのおこたで暖まりたいなぁ︙︙
「で、はとちゃんの頼みって何?」
と、そうだ、そうだ。そうだった。家に帰って炬燵に潜り込むのは延期。やらねばならないことがあるのだ。時間が経つのは早いから、無為に過ごすのは後日でいい。
「えっとね、恒例行事がもうすぐじゃない?」
「鬼は外って、年の数だけ豆食べたり?」
「節分ならもう一週間も前に終わったよ」
「む、はとちゃんのことだから、こっちのネタで来るかと思ったけど」
ちょうど晩ごはんが手巻き寿司だったから、恵方に向かって食べたりはしたけれど、今年のわたしに「鬼は外」のフレーズはちょっと微妙だったりする。あまり節分万歳といった感じではない。
「︙︙となるとやっぱり答えはひとつか」
「そんなにもったいぶらなくても、バレンタインに決まっていますわ」
「お凛ー! あえてあたしが訊かなかったっていうのに、人が最後に食べようと思って残しといた好物を『いりませんの?』なんて言いながら抜け抜けと掻っ攫うような真似してあんたはー!」
後ろを振り返りながら、がーっと怒鳴る陽子ちゃん。相変わらず凄いなあ。『寿限無』だって一気呵成に言えちゃうかもしれない。
閑話休題、わたしたちの後ろにいたお凛さんわたしや陽子ちゃんより背の高い彼女は、三人横並びが迷惑な道だとその辺りが定位置になるは涼しい顔で、
「ですわよね、羽藤さん」
などと返事を促してくる。歩調を弛めて横並びになり、返事如何によってはどうしてくれようと様子を窺っている陽子ちゃんは完全スルー。
「あ、うん、そう」
答えるわたしもわたしだけれど。
あと一週間もしないうちに、バレンタインデーがやってくる。
好きな人にチョコレートをプレゼントするという、二月中では伝統ある節分を大きく引き離して盛り上がるだろう恒例行事だ。詳しい由来については物知りのお凛さんに訊けば一発だろうけど、ここでは割愛。
うちは女子高だから共学ほど盛り上がったりはしないんだけれど、それでもみんな花のお年頃なわけで、もちろんわたしとて例外ではなく。
「それでやっぱり、手作りチョコかなって思って」
乙女としては、そういうものに惹かれたりもするわけなのです。
「ふむ。ま、バレンタインは基本だからいいんだけどさ︙︙」
「うん?」
陽子ちゃん、今度は歩くペースを上げてわたしの隣に並びつつ。
「はとちゃんが手作り? それもチョコ? お萩とかじゃなくて?」
「いくらわたしが和食派だからって、バレンタインにお萩はない思うよ。ありかもしれないけど、やっぱりないと思うよ」
「それにお萩と比べるなら、チョコレートの手作りの方が楽でしょうしね」
そうそう。小豆を煮潰して餡子を作るのに比べればそりゃあチョコレートだって豆から始めたらとんでもない手間になるだろうけど、専門店のパティシエならぬ一般家庭の女の子はそこまでやらない。
「溶かして固めるだけだもんね」
「甘い!」
「えー」
「はとちゃんみたいに冬季限定チョコより甘く盪けた考えしてる子が、鍋にブチ込んだのに直接火ィかけて、底を焦がしたりするわけよ!」
「大丈夫だよ。わたしは暢気な方だから、焦らず急がずとろ火で溶かすよ」
「︙︙はとちゃん」
情けないと嘆きつつ陽子ちゃんは立ち止まり、つられて足を止めたわたしの肩に、数歩遅れで歩いていたお凛さんのてのひらが乗せられる。
「その道に通じたプロの方には、直火を使う方もいるそうですけど︙︙普通は湯煎で溶かしません?」
「︙︙あ」
知らなかったわけではなく、ついついど忘れしてただけ。こうした小事が積み重なって大事に至るわけだけれど、今のは無効にしてほしい。
陽子ちゃん、わざとらしく肩をすくめてため息。渇いた空に白く蒸れた息がもわっと散り、一瞬だけ顔を隠した。
「︙︙なるほど。初心者マークどころか無免許状態のはとちゃんは、あたしに手取り足取り習いたいわけだ」
「ううっ、別に習いたいわけじゃなくてね、ちょっとお台所を貸して欲しいなー、なんて思ったりしてて︙︙」
「うわっ、あたしの家を引っ掻き回しにやってくるわけね?」
「引っ掻き回すって︙︙」
「ガス爆発とかさせたりとか」
「しないもんっ!」
「では、どうして自宅でしませんの?」
右の人差し指第二関節を唇と顎の間のくぼみに添え、その手の肘を左掌で支えるといったお得意のポーズで訊ねてくるお凛さん。クラスで知られる「もの知り」の二つ名は、この旺盛な知的欲求あってのものかも。
「羽藤さんのお宅が使えない、というわけではありませんわよね?」
「えっと、それはその、家でやるとバレちゃいそうだし︙︙」
「知られると問題が?」
「だって、ほら、やっぱり恥ずかしいし︙︙」
「むむっ、それは乙女の恥じらいモード? ついにはとちゃん本命チョコか」
「ですわね。去年は既製品でしたし」
「ま、はとちゃんママが台所占拠してたみたいだしそれで仕方なくかもしれないけど。なんかママさんメチャ大量に作ってなかった?」
「わたくしも頂きましたわ。営業用、とのことでしたけど」
「一枚いくらの名刺代わりの割には凝ってたわね」
「お母さんもともと料理上手だし、凝り性なところあったし」
「ふむ︙︙なのに、なんでその娘はこうかね?」
「その娘だからこそ、ですわ。必要は発明の母であり、技術習得もまたしかり」
「ひどいよ、ふたりとも好き勝手言ってるよ︙︙」
そりゃあ料理は未だに苦手な部類だけれど、洗剤でお米を研ぐ人とか下には下がいるわけで、少なくともわたしはそこまで扱き下ろされるレベルじゃないのに。
ぷーっと頬を膨らませ、止めていた足をせかせかと前へ。
未だ短い二人の影から脱した辺りで、お凛さんの声が背中に追いついた。
「申し訳ありません。お詫びにわたくしの家を提供いたしますわ」
「え? いいの?」
その場でくるり振り返ると、お凛さんはいつもの調子で鷹揚に微笑み、陽子ちゃんは名状しがたい複雑な顔でお凛さんを見ていた。何でだろう。
「わたくしも初体験ですけれど、一緒に挑戦してみるのも一興という気分になりましたから。幸いわたくしも営業先には事欠きませんし」
「お凛さんが営業? どこに?」
お母さんはフリーの翻訳家兼通訳だったから、お仕事くださいねっていう営業はとっても大事。結果は散々だったらしいけど、サクヤさんも手作りチョコを配ったことがあると言っていた。だけどお凛さんはわたしと同じ学生で、うちの学校は原則バイト禁止だし︙︙
小首を傾げるわたしに追いついたお凛さんは、そのまま横をすり抜けて先に立つ。
「習い事もありますし、家にはお父様の部下の若い方たちが何人もいますから」
「あ、そうだったね」
「お凛のとこは義理人情の世界だからねー」
何度かお邪魔したことがあるお凛さんの家は、十人や二十人は楽に収容できそうなほどの大邸宅で、漆喰の白塀に囲まれた純和風の建物は「出会え、出会え」の掛け声で奥から人が湧いて出る時代劇の武家屋敷といった趣。確かに三世帯家族が住むには広すぎる。
「だけどお凛、あんたんちのって台所っていうより厨房でしょ。板さんに言って使わせてもらうのはいいとして、素人の手には余るんじゃないの?」
「まあ、何とかなりますわ」
「ますわってあんたねー。大体、型とかのフツーのお菓子作りの用具って無いんじゃない?」
「そうですわね。洋菓子は店から取り寄せるのがほとんどですから、専用の器具はありませんわね。材料と一緒に購入することにいたしましょう」
「︙︙うわ、これだからお嬢は」
チョコレートの材料程度ならともかく、道具を一から揃えるとなると普通の女子高生のお小遣いでは気前良くぽんと出せるような額に留まらないと思う。
さすがお凛さんお金持ちといった感想だけれど、わたしの付き合いで散財させるのはどうにもこうにも気が引ける。
「仕方ない。我が家の台所を解放するとしますか」
「あら、奈良さんのお宅には揃っていますの?」
「そうだよ。わたしの家には多分あるから、そこまで考えないでお台所貸してって言ったけど︙︙」
お母さんが作っていたから台所にあるもので大丈夫なんていうのは、我が家基準のずさんな考えだったと思う。ううっ、わたしの用意周到って穴だらけだよ︙︙
「陽子ちゃんがお菓子作るなんて見たことも聞いたこともないよ?」
「食べたこともありませんわね」
「あれ? うちに来たときクッキーとか出さなかったっけ?」
「うん、陽子ちゃんのお母さんが出してくれたよ。あとマドレーヌとかも」
「とまあ、そーゆーわけ。あたしはそんな趣味ないんだけどね」
「あ︙︙」
なるほど。状況的にはわたしの家とそう変わらず、娘はともかく親は好き、と。
そういえば玄関とか居間とかには、陽子ちゃんの部屋とはちょこっとカラーの違う少女趣味な雰囲気が漂っていたような気がしないでもない。さてはお母さんの愛読書は『赤毛のアン』とかそういうのだろうか。
「というわけで、うちでいい?」
「うん」
「その代わりと言っちゃーなんだけど、はとちゃんが最初に作ったのはあたしが食べるわよ」
「味見してくれるんだ?」
「へっへっへっ、はとちゃん一生に一度の初めての手作りチョコいただきー」
「︙︙別にそんなへたっぴなのじゃなくて、もっと上手くできたのでもいいよ?」
「ではわたくしは、二番目に上手くできたものを頂くことにしますわ」
「え? まあ、二番目なら︙︙」
「では、十四日にラッピングしたものをお願いします」
「うわっ、お凛ズルッ!? だったらあたしは一番を」
「それは無理ですわ。一番に先約がなければ、チョコレートを作ろうといった状況にはなりませんでしたから。ねえ、羽藤さん?」
「え? え? え?」
「では、材料を揃えて奈良さんのお宅に向かいましょうか」
「あ、だけど何買ってけばいいんだっけ? 本屋でレシピ立ち読みする?」
「それでは落ち着きませんから、何冊か買いましょう」
「オッケ。時間はあるし、ハックかどこかで作戦会議する?」
「折角ですから、チョコレート菓子の美味しいお店に参りませんこと?」
言い出しっぺのわたしを置いてきぼりに、相談する親友二人は楽しそうに予定を組んで、そんな二人に流されるわたしも、また
如月某日。空は澄み快晴。風は冷たく湿り気はなし。
そんな特別な日の前の、特別ではない日の午後のこと。
それなりに続く一年の、ほんのわずかな一片のこと。
《ひととせのひとひら「如月」了》